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共通テスト現代文難しい論「センター国語試験(共通テスト国語)の弱点、盲点 「書いてないぞ!証拠を出せ!」という人材を輩出する試験」

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どうも、太陽です。(No72)

 

突然ですが、「センター国語の試験、特に現代文(評論文、小説含む)」と僕は「非常に相性が悪い」です。

センター国語の過去問を毎年、解いていますが、かなり間違えます。

絶望的に、「センター国語と僕は相性が悪い」と言えます。

 

しかし、僕は文章を大量に書いていますし、要約や書評も書いています。

僕の1例のサンプルに過ぎませんが、読解力も執筆力も、センター国語とはあまり関係がないのかもしれません。

今回は、このセンター国語の特性、または弱点や盲点の話をします。

 

共通テスト現代文は「ある意味、変に難しい」とも言えます。

この話題に興味がある人は続きをお読みください。 

目次

1 記事からの引用。

まず、以下の記事を貼ります。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69671

「大学入試国語、問題文の著者本人が自ら解いて気づいた「読解力」の本質」というタイトルです。

 

以下、一部、引用します。 

著者に国語の問題は解けるのか

入学試験の国語の問題は、著者には解けるのか。ということは、ときどき話題にされることがある。

つまり夏目漱石の『明暗』が国語の問題文に出されたとき、夏目漱石本人はその問題を解けるだろうか、「著者の考えを選べ」という問題に漱石は正答できるだろうか、という問いかけである。

略。 

主旨はわかるのだが、何だかいくつかの誤解が積み重なっている風景に見える。

私の文章も何度か入学試験で使われたことがある。

略。 

自分で解いたときの感触

問題文が送られてくると、やはり気になるから自分で解いてみたりする。

自分の文章問題を自分で解くといろんなことが見えてくる。

それについてちょっと解説してみる。

「著者の考え」という言葉が設問に含まれる問題を見てみよう。

2012年のある女子大学の問題である。引用されたのはちくま新書の『いますぐ書け、の文章法』からだった。

略。

 

世間の誤解はそこにある。久しぶりに本気で入試問題を解いてみてわかった。というかおもいだした。

設問者が聞いているのは、著者の私の本当の考えなどではない。

いまここに出されている問題文から何を読み取れるか、それを問うているのである。

著者であろうと、自分の勝手な考えを書いても(選んでも)正解にはならない。

文章を書いた本人であろうと、問題を解くなら、いまいちど問題文を精読するしかない。

著者なんてどうでもいい

それで気がついた。

 

受験生のときから、現代文は得意だった。

もともと好きだったが、途中からものすごく得意になり、選択肢問題ではほぼ間違えることがなかった。

その感覚をおもいだし、その理由もいまわかった。

私が対峙しているのは、出題者である。

この「問題を作った人」が何を考えているのか、ただただ、それだけを考えて読めばいいのだ。

極端な話、著者なんかどうでもいい(いいわけじゃないんだけど、でもまあ極論すればそうなる)。

だから著者本人が、自分の文章を引用された問題を解こうとしても、そのシステムをおもいださないかぎり、正解できないことがあるのだ。しかたがない。

自分の文章の問題文を読んでるからこそ、すごくわかった。

 

もともと現代文問題が得意で、その解答するためのスイッチが入ったとたん、私の頭は「この問題を作成した人の意識」にロックオンするばかりである。

この文章を書いた人(私です)のことなど考えもしない。

自分の身体の奥まで刻まれた“現代文を解くマシーンぶり”にも驚くが(40年近く使ってなかったが、スイッチを入れたら突然、作動した)、でもそういうことである。

著者の考えは「遠い風景」である。遠いところに置いてある「ばかでかい絵」を描いた人と考えてもいい。

遠くに絵があって、それより近い場所に出題者がいて、その風景を(ばかでかい絵画を)勝手に切り取って、その一部分だけを見せる。

出題者は意図をもって切り取り、一部分しか見せてくれない。

そして「何が見えますか」と聞いてくるのだ。

これが読解問題である。

 

もともとの遠い風景(ばかでかい絵画)を描いた人のことも意識しないわけではないが、大事なのはその中間に立って「風景(絵)を切り取ってる人」であり、その切り取りの意図である。

そっちをまず強く意識しないといけない。

そして、それを意識できるようになって以降、私は現代文(読解問題)で間違えたことはほぼなかった。

自分でいうのも何だけど、極意を会得した剣豪みたいに解けた。まあほんとに剣豪時代くらい昔の話ですけど。

 

受験生のときは、そういう言語化はせず、水に入ったらすっと泳ぎ出すように、自転車にまたがるとすぐ漕げるように、問題文を見たらやることが自然にわかって、頭がそう動いていた。

頭脳を使ってるとはいえ、身体的な能力である。

だから40年経っても作動する。

受験生の態度に戻ったら「身体が勝手に動いた」のだ。

この場合の身体は脳ですけど、でも筋肉みたいなものだなあ、と感じる。

解答者は出題者の頭の中を類推しなければならぬ、といま、そう言語化できたのは、時間が経ったからだろうし、ものを書く仕事をしてるからだろう。

なるべくシンプルに言えばどうなるのか、ということを毎日やっているからだとおもう。

これが問題文に向かう基本姿勢である。

 

もうひとつのルール

それとは別に言語化されてないもうひとつルールがある。

「問題文の文章だけを根拠にする」

そういう明確なルールがある。

それをもとにゲームが始められている。

いま見せられている文章がすべてである。

そこに書いてあること以外はいっさい想像もしないし、新しい可能性を考えてもいけない。

そういうルールがあるのだ(多くの人はわかってるとはおもうんだけど、いちおう)。

略。 

選択肢を踏まえたうえで、それと同じ意味の文章が本文中にあるかどうかを探す。そういうゲームだし、そういうゲームでしかない。

 

「類推禁止」というルール

受験参考書などには、このことについて、「答えは問題文の中にある」と解説してるようにおもう。

いま、感じるのは、その説明だとかなり足りてない、ということだ。

言い方がやさしくて、伝わりにくい。

私もそういう解説を読んだ覚えがあるが、いま自分のつかんでる方法のことだとはおもってなかった。

いろいろむずかしい。

わかりやすくいうなら、類推の禁止、想像の禁止である。

そういうルールがある。

この作者なら、こういうことを考えそうだ、と想像してはいけない。

本文中に明確に書いてあることだけ、そこだけからしか答えない

 

ただ、選択肢の文章は、本文とまったく同じ文章ではない。

必ず言い換えがしてある。

語順が逆だったり、論理的展開を結論から述べさせようとしたりする。

同じ意味の違う言葉に変えてあったりもする。

その「言い換え」を見破るゲームでもある

 

記述式の場合は、本文の文章をそのまま使って書く。

だから短い文字数の記述文は、ほぼ必ず同じになる。

「本文中に使われてる言葉」で「本文の論旨にのっとって」要約する作業なので、まずブレない。

記述式というと幅広い回答があるように夢想してしまうが、ルールを守っているかぎり、そんな文章は書かれない。

ルールが明文化されてないだけだ(最近問題になっている記述式のばらつきは、また、別の問題である)。

略。

 

書いてあるか書いてないかをチェックするだけのゲームだ。

想像禁止。類推禁止。そういうルールである。

そんな問題を解いて、文章力が育まれるのか、というのは別の問題である。

とりあえず、表現力より前に、読解力が身についてないといけないと考えるのなら、必要な問いである。

こういうゲームをこなせる基礎訓練がなされてから、次の段階で表現力をみる、という考えからだろう。

あながち間違ってはいない。

 

「その先」が求められる入試改革

この先、入試改革によって解答方法などが変わってくるようだが、基本ルールは同じである。

どんな問題だろうと、対峙するのは「出題者の考え」である。

そして「問題文」に書かれてることだけから答えないといけない。

書かれてないことを根拠にしてはいけない。

それは変わらない。

ただ、これからはその先を求められていくようだ。

 
この手順を済ませたあと、その先でまだ論理的な意見を組み立てないといけなくなる、というのがこれからの入試改革のようだ。

しかも問題文が複数だったりするらしい。

手順がかなり増える。

とはいえ、解答は、ある程度パターン化したものを書けばいいはずだが、手順が増えるのはたしかである。

正解への階段数が増えてしまう。

これからはそういう思考方法ができる人しか生き残れない、という未来予測なのだろう。

 

いろいろなかなか大変である(採点が揺らぐのはデータが少なすぎるからだろう。早くいろんな型の問題を出して、解答パターンを膨大に集めて集計するしかない)。

試験問題というのは、多くの人間が同じ問題を読んで、ルールを理解して(ルールを類推して)、そのルールに沿って解けば同じ答えにたどりつく。

そういうものが作られている。

読解力の問題は、そういうルールの存在に気づいているか、自分のなかでそういうルール作りをしてきたのか、ということも問われているのだ。

「出題者の意図だけを考える」「書いてある本文以外を絶対に根拠にしない」というのは読解のコツだとおもう。以上、ここまで。

 

さらに記事には続きがあるので、興味が人は読んでみてください。

具体例も混じえて書かれているので、僕の引用記事より、はるかに理解しやすいでしょう。 

2 僕の考察。

ここからは僕の考察に移ります。

 

まず、かずさんのツイートを貼ります。

「引退発表した白石麻衣が企業の経営者とかに誘われても八年間ノースキャンダル貫いたってニュースの裏側を読むと、企業の経営者達はアイドルに基本的に手を出してるという解釈が成り立つので人生はつらく悲しい」以上、ここまで。

 

「8年間ノースキャンダル」という、表だけの書かれている情報だけを読み解くならば、そのままの額面通りの意味しか読み解けません。

ですが、逆に考えたり、書いていない情報まで裏読み、類推すれば、上記のようなツイートが生まれるわけです。

 

現代文信奉者やASDの人は、以下のように言うかもしれません。

「企業の経営者たちがアイドルに基本的に手を出しているなんて、どこにも書いてないし、発表されてないぞ」と。

または「証拠を出せ」と言うでしょう。

 

しかし、類推すれば、上記のようなツイートは導き出されるわけです。

「なぜ、このノースキャンダルがこれだけ騒がれたか」といえば、珍しい現象だからです。 

珍しいということは、逆に言えば「ノースキャンダルなアイドルはほぼいない」と類推されます。

だからこそ、「基本的に経営者?はアイドルに手を出している」と、予測できるのです。

 

これは告発などはあまりなされていませんが、おそらく事実です。

(枕営業の告発はたくさんあります)

まぁ普通に考えて、可愛いアイドルに、権力のある大人たち(特に、おじさん)が手を出さない方が矛盾しています。

つまり、類推もかなり役立つ手法なのです。

 

目に見える、表の世界、書かれている、公開されている世界だけが全てではありません

現代文信奉者やASDの人は、あまりにもこの「類推禁止、書かれていることだけを根拠に読み解け」ルールに最適化しすぎると、応用が効かなくなる恐れがあります。 

すぐに、「書いてないじゃないか?」や「証拠を見せろ」と言うような人材になるのです。

しかし、類推、推測が当たる場合もけっこうあります。 

それは上記のような逆説的なモノの見方などから、可能なのです。

 

または、僕の以下の記事のような、裏読みが可能になります。 

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陰の実力者になりたくてという漫画があるようだが。。。「陰の実力者と本物の違い。本物とは何か?」

 

響の漫画で「小説家の天才の響のような本物は、TVに映るべき」という主張です。

これは逆から見れば「小説界には本物はいない」と言うことになります。

つまり、ゴーストライター活用や、編集者活用や、メディアによって作られた虚像などになるのです。

 

スポーツや将棋などの完全実力世界は、本当の実力者しかいませんから、わざわざ本物という表現を使う理由があまりないのです。

しかし、ボクシングで、村田選手が「リアル(本物)と戦いたい」と言ってましたが、世界王者は基本的に「本物だらけだ」と思いますけどね。

だって、やらせや、ハンデがかなりありまくりや、不正などは、ボクシング界は少ないでしょう。

本当の実力がある者たちだけが生き残る世界です。

 

このように、「1を聞いて10を知る人材」は、目にみえるモノ、書いてある文章だけの表面部分だけを見ないで、そこから「裏や書いてないことまで、類推する能力が高いのだ」と思われます。

そう考えると、現代文という科目では、まったく類推する能力は鍛えられそうもありません。 

もちろん、相手の言っていることを完全に理解する読解力は重要です。

世の中には、ツイッターなどでも、言ってないことを叩かれたり、邪推されたりすることは多いので。

拡大解釈も多いです。

 

しかし、単に、書いてある、言っているだけを真に受けているだけでは、人の深層心理なども読み解けず、応用が効きません。

書いてあることだけしか理解できないのであれば、書いてないことは相手に伝わりません。

つまり、相手を察する能力が高くならないのです。 

しかし、現代文高得点者は、どうやら忖度は上手なようです。

官僚は忖度は上手ですからね。

(だいたい、官僚は高学歴、つまり現代文高得点者が多いでしょう)

 

だいたい、相手の指示通りにやれるのは大前提だとして、相手の指示のさらに期待を上回れるパフォーマンスを上げると「能力が高い」と思われます。

相手の指示にちゃんと従っていても、相手も間違えることがありますから、額面通りに受けとってばかりいたら、間違えますし、または騙されますし、応用が効きません。 

もちろん、相手の指示を邪推、裏読み、深読みしすぎもマズイです。

つまり、相手の本音や要求や言いたいことを、ちゃんと理解しないといけません。

 

しかし、現代社会において、「表の世界や、書いてあることだけ、目に見えることだけを根拠に、何かを論じるということ自体の方が少ない」と僕は思うのですが。。。

それこそ、額面通りにしか読み解けないASDの人達になってしまいます。

(ASDの人たちは察することができません。文字通りに受け止めます)

 

世の中は、裏の世界や、書いてないこと、目に見えないことを頼りに、類推、推測し、不確実な世界を渡り歩くことが多いのです。

そう考えると、「現代文という科目は大して役立たない、実生活に使えない科目だな」と僕は思います。

 

そして、共通テスト現代文試験は「変に無駄に難しい、なぜなら落とすための試験だから」ということです。

 

ではこの辺で。(6163文字)

 

このブログは個人的見解が多いですが、本・記事・YouTube動画などを元にしつつ、僕の感性も加えて、なるべく役立つ・正しいと思われる記事を書いています。

あくまで読者がさらに深く考えるきっかけとなればいいなぁという思いですので、その辺は了解ください。

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この記事を書いた人

大量の情報を咀嚼して、独自の視点からの考察・分析・エッセイ記事などを書いています。

質で勝負するブログのため、敢えて正体を明かしていません。

ブロガー歴10年以上。多数のブログ運営経験あり。

得意分野。経済、ビジネス、教育、心理学、執筆、アイデア発想など。

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